旧 神 輿
旧多町一丁目(現多二南側)は大正9年5月の神田祭に合わせて
大神輿・小神輿・曳き太鼓山車を新調した。
作人は秋山三五郎。西八丁堀・秋山三五郎商店(神仏具店)の当主である。
混乱の時代を多町の神田祭において活躍した旧神輿を写真で追ってみる。
秋山三五郎師の代表的な作品としては、
大正5年作の鉄砲洲稲荷神社の本社神輿(4尺2寸)が有名である。
人も神輿も『威風堂々』。

関東大震災により神田、日本橋が壊滅してから、
1年半しか経過していないこの年は全体としての「神田祭」は行なわれてはいない。
旧多一町会が祭を挙行する。豊かな財力と心意気であろうか・・・
巨大なお仮屋も見事なものである。

◎山田光太郎氏(前列右から3人目)
昭和7年・9年の「神田祭」の貴重なフィルムを残してくれた。のちの町会長。

◎山路徳三郎氏(後列右端)
当代鳶頭、山路修一郎氏の父君、当時16歳。
因みに中列左側の黒半纏の小柄な方は先先代(当代の祖父)の鳶頭である。

◎秋山三五郎氏(後列右から2人目)
神輿など神器一式の作人。西八丁堀、秋山三五郎商店のご当主。

昭和7年 旧多町一丁目町会・神田祭
関東大震災(大正12年)以来10年振りの神田祭である。

詳しい資料は残っていないが、震災後の祭礼の写真もあるので財力があり町の復興が早い町会は独自で祭礼を行っていたと想像できる。震災後のこの10年間で神田の様相は一変したといっても過言ではない。

まず、江戸時代以来約300年間続いた『神田青物市場』が昭和3年に秋葉原へと移転した。これまで職住一致で相対取引をしていた市場は、秋葉原へ移り流通の基地となり競り売り取引へと変わり、市場人も通勤する形となったので神田多町周辺に住んで生活する必要がなくなったのである。

中央通り、靖国通り、昭和通りなど大通りをはじめ道路環境も大きく変化していく。震災を機会に都市が整備されていく中で翌昭和8年には町そのものが大きく変わった。住居表示変更の政策で町会の合併や統廃合が行われ、江戸時代初期からの由緒ある町名が数多く消えていった。

多町通りでの記念集合写真である。江戸時代よりの旧多町一丁目の祭礼の写真としては最後のものである。今となっては旧多一住人の気持ちをはかり知る事もできない貴重な一枚の写真である。

昭和8年 旧多町一丁目
神祭器一式を国立博物館へ寄贈
昭和8年の旧多一と旧多二の町会合併に際し
「処理に困って上野国立博物館に献納された旧多町一丁目町会の大神輿」と
『神田公園地区連合町会30周年記念誌』にある。

処理に困ってという理由がよくわからないのである。
旧多二は市場時代には江戸神社天王祭を主催
していたが
関東大震災において本社神輿などの祭器や有名な「鐘馗山車」などは全て焼失していた。

旧多町二丁目で山車や神輿などの祭禮器具が復活していたとは考えられないので
旧多一神輿など一式を新町会の祭禮器具としてもよかったと思うのであるが
旧多一町会は祭器一式を国立博物館に献納・寄贈してしまったのである。

写真は、その時に博物館前で撮影された記念の写真である。

昭和21年 神田復興祭(多町二丁目町会)
昭和16年12月に始まった大平洋戦争は昭和20年8月に敗戦の形で幕を閉じた。
昭和19年11月から20年5月までの米軍による東京大空襲において
神田はもとより東京下町の大半が消失して焼け野原となった。
敗戦から1年後の昭和21年9月に神田区主催の「神田復興祭」が行われた。
多町二丁目町会は国立博物館に寄贈した大神輿を借り出して参加。
区をあげてのこの祭禮は、敗戦により消沈していた「神田っ子」の血を湧き立てた。
そろいの半纏などはなく、なりもばらばらだが若者たちの笑顔が素晴らしい。

●写真左 宮入参拝・明神さまにて
神田明神へ宮入参拝した多町二丁目の若者たちと大神輿である。
旧多一大神輿を博物館より借り出し昭和7年以来14年振りに多町二丁目で復活した。
多町は、空襲でも奇跡的に町会の3/4が焼けずに残った。
敗戦で全てを失った当時に写真を撮影していたこと事体が珍しいことであり
この写真が多町二丁目町会神輿が明神さまへ宮入参拝をしたことの証拠写真となる。
※神田区復興委員会(斎木写真館製)より「神田復興祭記念写真帖」が発行された。
※右はじの町内鳶頭は山路徳三郎氏(故人・当時37歳)。

●写真右 多町二丁目神酒所前にて
多町二丁目角のチダハンドラ−(フートー・ビンセン)さんが神酒所になっている。
現在のサンエックスさんで「たれパンダ」の大ヒットで有名である。
当時の看板にすでに現社名であるサンエックスのマークが使われているのがわかる。
先代社長の千田杏三氏は、この後昭和28年より10年間の長きに渡り
多町二丁目町会長をされ、その間二期に渡り神田公園地区連合町会長も勤められ
戦後の貧しい混乱期に町会のために大変な御苦労をされ自治功績を残された。

※左写真とほとんど同じメンバーの若者たちの記念写真である。
※昭和22年より27年まではGHQにより町会組織は禁止されていた。
※敗戦翌年で壮年の方が少なく、衣装もばらばらだが若者たちの笑顔が印象的である。

神田明神社殿前
社殿前で、市場の半纏に半股引、鉢巻き、白足袋姿は私の父親(23歳)。当時、親父とその兄(叔父36歳)は神田市場(秋葉原)で働いていたが、祖父(65歳)は引退していた。着ている「市場」の半纏が多町市場時代のものか、秋葉原市場時代のものかはわからない。明神さま社殿前には多勢の見物人がいる。
神田駅前
現在の神田警察通りを巡行する多二町会旧神輿の向こうには、空襲による焼跡で建物がないために神田駅までがよく見える。手前の男性のおしろいが現代では奇異であるが、おしろいは神に近付くという意味があり、現代でも少し前の時代では珍しくもなかった。担ぎは神輿によりかかるように担ぐ平担ぎである。