素人三点間推理夢づくし
(赤坂氷川山車のゆくえ)

祭狂斎みち藤こと黒田通生
 

ここに掲載の一文は、素人の祭狂斎みち藤の初夢のひとつ平成十九年正月時点で知りえたこと、
思い描いたことをもと思いのままに書き連らねたものであることを御理解いただきたいと思います。
中国の三国志の英雄「関羽」は、日本各地の祭りの山車人形として数多く造られています。

平成18年11月4・5日、埼玉県の寄居の秋まつりにあたり、寄居の栄町会館内に山車人形「関羽」が展示されました。町の方々が盛り上がりから五日その日に急遽山車に載った栄町の「関羽」山車人形は、町の人々により明治以後百余年の間、大切に守り続けられています。

現在は手づくりでの復元であり将来に向けてかちょっぴり上向きですが、髭の立派な容貌は美しく、頭にはおなじみの頭巾を戴き、右手に唐鍔の長い太刀を持っています。その姿は品の良いものです。長い太刀は早稲田演劇博物館所蔵の「関羽」のように現在は下前の方に下げていますが、地元の詳しい方が持つ右手の傷みかたから立てて持っていた(江戸博物館にある神田須田町の再現山車の「関羽」のように)のではないかとのお話を聞きました。

この栄町の「関羽」の人形の頭を納める木箱には銘があり「初代原舟月」と記されていたためその信憑性を疑う方もおります。そして初代は山車人形を製作した形跡がないこと、明治期になっての三代目のものがほとんどである事や箱書きには「栄町」の記載のあること等から初代説はマニアの間では初代ではありえないことなりました。「原舟月」の特色である首の柄がなくそこに刻まれることの多い「原舟月」の銘は確認できませんでしたが、四角い穴はあり長い間の修理の際に柄が抜かれたことも考えられます。髭は馬や熊の毛が多いのですが人の毛のようにしなやかでした。髭のつけ根に簡単に釘が打たれており後日補修が行われたものと推定します。

また、この山車人形は口伝ですが同じ埼玉県の本庄市本町が所有していたものを購入したと伝えられています。本庄・寄居ともに明確な文書もなく、私が江戸天下祭の一件で面識がある本庄市本町の山車の関係者の方に新たな資料の発掘や確認をお願いしているところです。また、本庄市本町の「本町自治会誌」作成時での調査によると「関羽」の山車人形の作年は不詳ですが、日清戦争の関連で敵国の英雄では不都合ではとのことから明治二十八年に「竹田縫殿之助清兼」作の「翁」に変えられました。その「翁」のあと現存の「石橋」を昭和三年本庄の本町へ納めた「浪花屋」は山車や人形の作者「法橋原舟月」「法橋仲秀英」「古川長延」「鼠屋」など有名な人形師のうちの一人です。本名は庄田七郎兵衛で、人形師として浅草区茅町に店を構え明治二十八年の「東京諸営業員録」という職人録に載る人です。関東では本庄をはじめ深谷・飯能・高崎・・や青梅市森下町には山車の作人札があります。遠くは静岡県掛川市大須賀などまだまだいろいろなところにあり、各地にその作品が多く残っているものと思われます。「浪花屋」については明治からの最後の大きな山車屋であり多く町にその足跡が残っています。関係する町々の方々の様々な視点からの研究が必要であることを痛感しました。

実はそれまでの「関羽」ではないかと思われるものが、過去に江戸の赤坂の表伝馬町で所有しておりました。
その所有の証となるものが赤坂の氷川神社へ奉納されている絵馬の大きな額に描かれ本殿内に掲示されています。
この絵馬は明治44年に寄進されたものです。区の資料には現存していたとされていますが、
そこに描かれたものがすべて当時に残っていたとは考えづらいと思っています。
すでに無かったので霞か雲の中に描かれているのかと思っています。
そして現在氷川山車の復元に向けスタートした赤坂のNPOの方々が作成の資料で、
ある年の欄に「関羽」は空白の欄がありました。

その行方について伺ったところ「埼玉県」に行ったとのことでした。

こうしてあげてきた三ヶ所の「関羽」は三体とも同一のものではなかったのかと
私ども素人にありがちな夢を見させてもらうことといたします。
江戸の大きな祭りでは同じ出し物の山車でも数年すると作りかえていた様で同じ町で所有していたものが数体、
江戸をはなれ現存するとは珍しいではないことと言えましょう。
赤坂に現存するすべてが明治末期頃まで何度となく造り代えられても良いのではと考えました。

 

赤坂表伝馬町一丁目(赤坂表一二町会)の「猩猩」も同じ意匠のものが寄居の中町に、
また赤坂新町一丁目「諫鼓鶏」(閑古鳥)も寄居の茅町に、
ひょっとすると寄居の武町「猿」が赤坂表伝馬町二丁目(赤坂表一二町会)もと欲張り夢を見させてもらいます。
寄居の本町の「神武」は残っていそうもないので夢は次の機会にさせていだきます。
ただし赤坂にも「神武」があります。

現在赤坂に残る「猩猩」は千代田江戸祭でマルキューブに展示の時は面を被り素顔は見られませんでしたが
九代目市川団十郎をモデルにしています。
素顔は見得を切るときのように眼が血走っているほど精巧な仕上がりのものです。
「猩猩」の赤い面は寄居と色も同じ色合いで意匠も良く似た同じ造りのようです。
白地で質素に見える山車幕も当時地元に住んでいた「勝海舟」の字をわざわざ刺繍で造るなど
山車の上に乗ってしまえばはっきり見えないのに随所に「贅」をつくし江戸っ子の心意気が伝わりそうなものばかりです。
 

「諫鼓鶏」もよくある張りぼてではなく精巧な羽が差し込まれる手のこんだ造りのものです。
特に先日の寄居の祭りには上方から某ホームページの有名な方と埼玉の某出版社より祭りの教本とも言えるものをつくられた方も見え祭り好きには有名な御二人が仲良く秋祭りに茅町の巡行に参加し楽しまれておられました。素晴らしい山車と山車人形そして祭に対する情熱が二人を結びつけたのかも?

話しは戻りますがやはり江戸っ子は一度造るだけでは満足できず同じ町で数体の人形が作られていたことはありえそうなことです。
神田・山王では頻繁だったようです。
そして、自分自身を含む地方の方々には言いづらいことですが、江戸ブランド(神田・山王・赤坂氷川など)があったのではとも思えます。京・上方に劣らぬ江戸っ子の心意気を今につたえるものとして今日でも多くの方々の感動で迎えられています。

以上取り上げたこれら山車人形は江戸の町々から繰り出され山車の上に並び天下人(将軍様)の上覧をいただくため江戸城にむけ進んでいく光景は江戸っ子の心を離さず、江戸から明治になっても数多く錦絵や版画に描かれ続きました。
江戸の近くで各地へ譲り渡され変わらぬ姿を今に留めていることについて、神田・日本橋や赤坂の江戸っ子の商人も、各地の商人(町民)も共に祭りに深い思い入れがあったのではないかと感じています。
百五十余年前、江戸時代が生んだ貴重な文化遺産の江戸の山車、各地で発達した勇壮な囃子とともに私たちは庶民文化の象徴として後世まで伝えつづけていかねばならないものと考えております。
今後江戸東京での巡行の機会があるときはこれらが江戸の錦絵・祭礼番付のような並びの方での再現も是非関係者の方々に検討していただくとさらに祭りは盛り上がり不滅となることでしょう。

最後に、みち藤住む青梅市には旧青梅町の五町やその他の地域にも天下祭などでの招聘には至らなかったがまだまだ優れた山車、山車人形があります。近い将来、江戸の地で多くが一堂に会する機会には、「武内宿禰」の山車の上での姿や「静御前」の舞姿を再び御披露申し上げたいと思って居ります。